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男の子の母親が彼女に駆け寄り、謝罪とお礼、それからクリーニング代を支払うというようなことを言っているのが、バスを降りる乗客のざわめきに混じってほんのり聞こえた。
結局彼女はクリーニング代も受け取らず、申し訳なさそうに何度も頭を下げながら去っていく女性と手を振る男の子をにこやかに見送った。
バスの扉が閉まる。
その中に俺と彼女以外の乗客はいなくなった。
彼女は鞄の中に文庫本をしまうと、代わりにティッシュやウェットティッシュを取り出して、溶けたバニラを拭き始める。
ハッとして俺もリュックを漁り、ティッシュを探し出した。
良かった。 今、鼻風邪ひいてて。
『これ、使って……!』
勢いよく座席を離れて彼女の元へ行った。
そう言ってティッシュを差し出すと彼女は驚いたように目を見張る。
目が合った。 途端に生まれる緊張。
拒まれたらどうしよう。余計なことしたかな。
こういうときって、理由もなくそんな不安が湧いてきて、根拠もなく後悔してしまう。
『ありがとう、ございます』
でも、彼女はそう笑ってくれた。
きゅっと胸が締め付けられた気がした。
『ううん、全然全然!
あ、てか俺が手伝えばいいのか!』
黙り込んだら雰囲気に飲み込まれてしまいそうで、俺は早口で言うと、ティッシュを引き抜いて白く斑になった床を拭いた。
『そんな、悪いです!』
慌てた様子の彼女に「大丈夫」と告げ、ちょっと余裕ぶってみる。
『Aさんのせいじゃないし。
……床は俺が拭いとくから』
『……ありがとう』
彼女はまたしても笑顔を浮かべた。
それから自身のスカートを拭き始める。
惜しげも無く見せられる笑顔に、毎回心が鳴って、ぽーっと意識が浮かび上がる。
彼女の笑顔には時を止める魔法の力でもあるのかもしれない。
煌めくような金色の魔法の時間。
それは、俺が君を好きになった瞬間────。
彼女を知ってからは、クラスは違ってもその存在を気にかけない日はなかった。
『あ、Aさん』なんて、彼女が廊下を通ったときに囁き合う男子たちの声にさえ反応するくらい。
『今日もクールだねぇ。
笑った顔とか見たことないもんなー』
『やっぱ冷たい子なんじゃね。澄ましてるじゃん。
私はあんたたちとは違うのよ、みたいな』
おおかた話しかける勇気がないだけのくせに。
相手にされないのが怖いだけのくせに。
彼女のことを何も知らないくせに、嫌味だけは一丁前だな。
笑う男子たちに、無性に腹が立った。
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作者名:小桜ふわ | 作成日時:2019年9月6日 17時